6月10日


PM 8:13 -Usoppu-





 生涯忘れえぬ日々の始まりの日、雨はただ静かに全てを濡らしていた。





 「青ざめた顔」という表現がある。
 オレはこれまで、それは文学的な表現で、人の顔が本当に青くなるわけではないの だと思っていた。
 けれども、待合室のベンチに独りうずくまるゾロを見たとき、それが写実表現なのだと 思い知らされた。
 ゾロは。
 親切な看護婦さんが手渡したらしいタオルを引きちぎらんばかりに握り締めながら、 真っ青な顔でそこにただ存在していた。
 その目は何も見ていない。
 あそこにあるのは、虚無だ。
 ――声を、かけなければ。
「――ゾロ」
 震える声は、静か過ぎる待合室に銅鑼の如く響き渡った。
 のろのろとこちらに向けられた顔は、オレの知っているどのゾロの顔でもなかった。
 ――まるでゾロの方が事故にあったみたいだ。
「…」
 ゾロの開きかけた口は、一、二度微かに動いたが、結局何も言わないまま再び視線 を宙に彷徨わせた。
 …鼻腔をつく、微かな血の匂い。
 見ると、ゾロの服は赤黒く変色していた。

 血だ。

 ゾロも何かケガをしたのだろうか。
 とにかく、このままじゃ、まずい。
 オレはゾロの一つ隣のイスに腰掛けると、まずゾロをこちら側へ引き戻すべく言葉を 探した。
 聞きたいことは山ほどある。

 ――サンジはどうなったんだ。
 ――ひき逃げだってのは本当なのか。
 ――警察に連絡はしたか。
 ――ゼフの爺さんはどうした。

 けれどもそれを今のゾロに問うのはマズイ。
 こいつら…ゾロとサンジは、並みの男女カップルとは比べ物にならないほど、心底互 いを想いあっている。
 そこに、こんな事が起きて、ゾロが平静でいられるわけがない。
 こんなとき、何を言えばゾロを引き戻すことができるのだろうか。
 記憶の引出しを片端から開き、オレはこれまでの人生の中で出会った人たちの言葉 を思い返してみた。
 …ダメだ、思いつかん。
 オレも相当動転しているみたいだ。これじゃあダメだ。
 深呼吸を一つして、横目にゾロを見る。
「おい、ゾロ」
「…」
 ぼんやりした表情で、ゾロがこっちを見た。
 さて、ウソップ。お前の本領を発揮しろ。
 お前は会話では誰にも負けない自信がある、そうだろう?
「みんなにもう連絡してきたからな。そろそろ着く頃だ」
「…ああ」
 よし、返事したぞ! 次だ、次!
「服、オレの上着貸してやるから着替えて来い」
 サイズ大きめの夏用ジャケットを突き出すと、ゾロは無表情に首を横に振った。
「このままで、いい」
「良くない。せめて羽織れ。風邪引いちまうぞ」
「風邪なんか…」
 真っ青な顔が歪んだ。
 多分、笑ったつもりなのだろう。
 …こんな状況じゃなきゃ、急いで逃げ出したくなる表情だった。
「いいから」
 立ち上がり、ジャケットをゾロに被せた。
 ゾロはされるがままだ。
 …くそっ。
 こんなのゾロじゃねえ。
 俺は何か喋ろうとする気持ちが急速に萎えていくのを感じていた。
 再びイスに座り、背もたれに体を預けて天井を見上げる。
 柔らかな青色に、白い雲の壁紙。
 今日の天気とは正反対だ。
 何だか無性に腹が立った。
 なんでこんなことになっちまったんだ、くそっ。
 こんなとき、オレはどうすりゃいいんだ。
 
 




 ゾロから、さっぱり要領を得ない電話がかかってきたのは、7時を少し過ぎた頃。
 家で1人せっせとオムレツを作っていたときのことだった。
 携帯電話じゃなく、家の方の電話が鳴ったので、子機の方で出た。
「…ウ  ソッ プ」
 一瞬誰の声だか分からなかった。
 間違い電話かイタズラ電話かと思ったぐらい、その声は遠く、震えていた。
「もしかしてゾロかぁ? どうしたよ、おい」
 子機を肩と耳で挟んで固定しつつ、オレは思いっきり失敗したオムレツを諦めてスク ランブルエッグに転身させた。
 今思えば、何て呑気だったんだ。
「サンジ  が」
「サンジが何だって?」
 まぁた喧嘩でもしやがったか。そのときは、そう思った。
 次の言葉を聞くまでは。
「   事故に」
「事故ぉ!?」
 オレは慌ててコンロの火を止めた。
 スクランブルエッグのなり損ないを皿に移し、子機を左手に持ち直す。
「事故って…何、どういうことだ」
 どういうこともこういうことも事故は事故だと思うのだが、この時オレはかなり動転して いて自分が何を言っているのか今ひとつ理解していなかった。
「轢  き逃 げ   だ」
「轢き逃げぇぇぇ!?」
 慌てて自分の部屋に飛んでいき、上着とカバンを引っ掴んだ。
「病院どこだ、サンジ大丈夫か!?」
「大学 付 属  病院」
「付属病院だな、分かった、20分ぐらいで行くからな! 何かあったら携帯にかけろ よ!」
 オレは子機を放り出すと、家中の電気を消し鍵を閉め、ガスの元栓を締め、スクラン ブルエッグを冷蔵庫に突っ込んだ。妙に冷静で、妙に浮き足立っていたのを覚えてい る。
 玄関の鍵も閉めたのを確認すると、自転車に飛び乗って夜の街をすっ飛ばした。
 途中、思いついて、ルフィに電話をかけた。
「おーうウソップ、どした?」
 いつもの能天気な声だったが、それは動転していたオレを日常に引き戻した。
 そうだ落ち着け、情報まとめろ、オレ。
「ゾロから電話あったか?」
「ん? ねぇぞ」
 ナミ、ゾロから電話あったかぁ、とルフィが電話口の向こうで言ったのが聞こえた。
「ゾロがどうかしたのか?」
 どうやらナミにも電話はなかったらしい。オレは深く息を吸い、一気に言った。
「さっきゾロから電話があった。サンジが轢き逃げにあったらしい。付属病院に運ばれ たって。容態は分からねぇけど、ゾロ、相当動転してたから、ヤバイのかもしれねぇ」
「…分かった、付属病院だな。おれたちもすぐ行く。みんなにはウソップから連絡してく れ、おれはエースと連絡とる」
「ああ、分かった」
「それから、みんなには、サンジの容態のことは分からないんなら言わなくていいぞ」
「そうする」
 電話を切り、オレは自転車をこぎながらみんなに次々と電話をかけた。
 大体ルフィに伝えたのと同じ事を言って、最後にロビンに電話をかけたが繋がらな かったのでメールを打った後は、歯を食いしばって病院を目指した。
 
 




 …真っ先に軽やかな足取りでやって来たのは、カヤだった。
「ウソップさん!」
 小声で名を呼び、駆け寄ってくる。
「…サンジ、さんは…?」
 オレは急いで立ち上がり、ボンヤリしているゾロから少し遠ざかった。
 カヤは心配そうにゾロの方を見やりながら囁いた。
「ゾロさん、大丈夫なのかしら」
「すっかり動転しちまってる。…オレたちが落ち着いとかねぇと」
「う、うん」
 カヤは頷いたが、それでも不安げにぎゅっと手を握り締めたので、その上から手を 握ってやった。
 オレって実はダメなヤツかもしれない。
 自分も混乱してたくせに、目の前で他の人が驚いたり動転してたりすると、逆に冷静 になれる…なんて。
「轢き逃げって、本当に?」
「詳しい話、聞いてねぇんだ。ゾロはあの調子だし…ゼフの爺さんはいねぇし、サンジ の容態とかも全然分からねぇ」
「…でも、軽いケガじゃ…ないんですよね」
 オレたちは揃ってゾロを見た。
 真っ青な顔のゾロを。
 今は目を閉じて、何かに祈るように手を組んでいるゾロを。
 ふと、カヤが呟いた。
「…ねえウソップさん、ゾロさんから電話がかかってきたんですよね?」
「お、おう」
 ――ん?
 何か、ひっかかる。
 そうだ、どうしてゾロから電話がかかってきた? 
 ゼフの爺さんが真っ先にゾロに知らせて、それで動転したゾロがオレに…
 いや、違う。
 きっと、そうではないのだ。
 それにしては、あまりにもゾロの様子がおかしすぎる。
 大体どうしてゾロのシャツに血がついてるんだ。

 まさか。

「もしかして…」
「ゾロ…現場に」

 いたのかもしれない。
 否。
 いたんだ。

 オレは頭をぶん殴られたような気がした。
 足元が急に冷たくしびれてくる。
 ゾロがあれだけ青い顔になっている理由がよく分かった。
 …というかオレだったらぶっ倒れてるぞ、多分。そんな状況になったら。
 オレはぎゅっとカヤの手を握り締めた。
 カヤは、ぽろぽろと涙を零していた。

 早足でやってくる複数の足音が聞こえて、オレは何とか我に帰った。
 ありゃ、チョッパーとナミだ。
 2人、というかナミは待合室に入ってくるなり素早くオレたちを見比べ、即座にこっち に向かって突進してきた。
「ウソップ、連絡ありがと。ルフィはエースさんの所に向かったわ。多分、一緒にこっち に来ると思う」
「そっか」
「ねえ、カヤ、何で泣いてるの? まさか…」
「あっ、ち、違うの、そうじゃないの。そうじゃないんだけど」
 ――ただどうしようもなく不安で涙が出てくるの。
 カヤの言いたい事は痛いほどよく分かる。
 実際、オレも泣きたかった。
 多分ナミも泣きたい気分だろう。
 けれども、1人、すでに大泣きしている人物がいた。
「ゾ、ゾ、ゾロぉ、サ、サンジ、サンジ大丈夫なのかぁ!?」
 この春入部してきたばかりの、チョッパー。
 オレたち上級生をとても慕ってくれる、心根の優しい1回生。
 それが、オレの上着を被せられたまま動かないゾロの前でわあわあと泣いていた。
「う、う、ぅひっく、ひっく」
 しきりにしゃくりあげ、泣き止もうと努力しているようだったが、それはほとんど徒労に 終わっていた。
 顔はとっくにぐちゃぐちゃで、涙と鼻水で大変な事になっていた。
「チョッ  パー  …」
 ゾロが顔を上げた。
 あれだけ陰鬱だった表情に、何かが過ぎったように見えた。
「サ、サ、サンジ、大丈夫なのか、お、オレ、サンジに、サンジに料理、お、教えて、も らうって、約束し、してたのに」
 まるで子どもだ。
 だが、その言葉と涙は真っ直ぐ心に届いた。
 そうだ、オレもサンジと約束がある。
 ナミの誕生日の相談もしなきゃなんねぇし、講義ノート見せてやるって言った。今度 の土曜日、飲みに行こうって。
 約束が、あるのに。
 つん、と鼻の奥が痛くなった。
 のどの奥が締め付けられるような感じ。
 …ああ、泣いちまう。
 そう思った時には泣いていた。
 カヤも、ナミも泣いていた。
 ゾロ以外のみんなが泣いていた。
 ちくしょう、泣くつもりなんてなかったのに。
 涙で霞んだ視界の中で、ゾロがゆっくり立ち上がった。
 何かの感情が、ゾロの瞳の奥で揺らめいていた。
 握り締めていたタオルでチョッパーの顔を拭ってやり、呆然と自分を見上げてくる小さ な後輩の頭に手を置く。
「サンジは、死なねぇよ」
「ほ、ホントか!?」
「ああ。アイツが、俺を・・・俺たちを置いて死ぬなんざ、あってたまるか」
 こくりと頷いたチョッパーは、気がつかなかっただろう。
 一瞬、ゾロが浮かべた凄絶な表情に。


 ――ゾロは、怒っている。


 恐らくは、轢き逃げ犯に。
 現場にいた、自分自身に。
 この、何も出来ず待っているだけの状態に。
 けれどそれは一瞬の事で、こちらを振り返ったゾロは、真っ青だけれどなんとかいつ ものゾロだった。
「…ウソップ、ナミ、カヤ、来てたのか」
 うぉい、気付いてなかったのかよ!!!
 そうツッコミかけて、やめた。
 まるでいつものゾロらしくないが、それでもゾロだ。
「もう、ゾロってば!」
 ナミとカヤがゾロに駆け寄り、まだしゃくりあげているチョッパーを宥めたり、ゾロにい ろいろと言葉を掛けているのを少し離れた所で見ながら、俺はさっきのゾロの表情を思 い返していた。


 ――あれが、殺意、ってやつなのだろうか。


 …轢き逃げ犯、捕まる前に、ゾロに殺されるかもしれねぇ。




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