022:足枷 -2-
目が覚めるとゾロの姿がなく、サンジは心底驚いた。
気配には敏感なはずの自分が、ゾロが部屋を出て行ったことにも気がつかないことにショックを受けたのだ。
――どうやら、ヤキが回ってきたかな。
サンジは自嘲気味に笑うと、そっと起き上がった。
僅かに咳き込み、悪態をつく。
「ちくしょう」
――まだ持つはずだ。
――まだ。
この都市に来てからというもの、咳が出て仕方がない。おそらくは都市全体に立ち込める製鉄の煙のせいだろうが、それにしても随分酷い。
――あまり、長居はできねぇな。
ヒルルクが亡くなっていた、というのはサンジの誤算だった。
ゼフの友人にして、稀代の魔導科学者、ドクター・ヒルルク。彼の技を持ってすれば、直せぬ…そして治せぬものはない、などと噂されていたヒルルクであったが、サンジの人形症を治すことは出来なかった。
ヒルルクは八方手を尽くして治療法を探してくれたが、せいぜい硬くなっていく筋肉をほぐすための薬を作ることぐらいしかできなかった。それだけでも十分だったとサンジは思っている。
何より、ヒルルクは約束してくれたから。
「必ず、治療法を見つけてみせる」
恋をして、結婚して、優しい伴侶を得て、たくさんの子ども達を得て。そして孫に囲まれながら老いて死んでいく、そういう普通の一生を送れるように、必ずしてみせると。
幼いながらにサンジは感激した。大きくなったら自分も医術師になろうとさえ思ったのだ。
だが、あの変わり者だけれど優しい医術師は、もういない。
――みんな、死んでいくんだ。
そして自分ももうすぐ。
サンジは両手で顔を覆った。そうしなければ溢れてしまいそうだった――必死に押さえつけてきたもの全てが。
ルフィ。ウソップ。ナミさん。…ゾロ。
彼らと話している間は忘れられる。ただの旅人サンジでいられる。
死を、想わずにいられる。
――一人でいちゃあ駄目だ、早くゾロを探そう。
そう思い、そっと立ち上がったそのとき。
とん、とん。
遠慮がちなノックと、声変わり前の高い少年の声がした。
「セイさん、起きた?」
「チョッパーか、起きてるぜ」
自分の体がぎりぎり通れるくらいに扉を開き、チョッパーがするりと部屋に入ってきた。脇には黒い大きなカバンを抱えていた。
サンジを見上げ、胸を張る。
「おれ、トニートニー・チョッパーは、医術師だ!」
「え?」
「医術師は、病気の人を治すのが仕事なんだ!」
「そ、そうだな」
「だから、セイさんの病気もおれが治す!」
「…ええと」
「まずはそこに座って、問診から始めるよ」
次々にまくし立て、自分はゾロのベッドによじ登って腰掛けてしまったチョッパーに、サンジは苦笑するしかなかった。
「チョッパー、医術師だったのか」
「そうだよ。ドクター・ヒルルクの一番弟子だったんだ」
サンジの眼が細められたことに気付かず、チョッパーは小さな手でゾロのベッドを叩いた。
「さ、座って。セイさん」
「…そうか、オッサンの。なるほど…」
呟きながら、言われたとおりにチョッパーの真向かいに腰掛ける。
「まず、体温を測ってもらうよ」
そう言って黒いカバンの中から体温計を取り出そうとしたチョッパーに先んじて、サンジは懐から小さな紙包みを取り出した。
「なあ、チョッパー。お前をあのオッサンと――ドクター・ヒルルクと、ドクトリーヌ・くれはの弟子と見込んで頼みがある」
それまでの優しい笑顔はどこへやら、チョッパーが思わず居住まいを正してしまうほどに真剣な表情と声でサンジは言った。
「これと同じ薬を大至急できるだけたくさん作ってくれ」
体温計を渡そうとしていた所に、反対に小瓶を手渡されて、チョッパーは困ったように首をかしげた。
「これ…何の薬?」
「…わりぃんだけど、それは聞かないでくれるか。ちゃんと必要な金も出す。だから、頼む」
紙包みを開き、残り10個ほどになった青いカプセル剤を一つ摘み上げ、チョッパーはクンクンと匂いをかいだ。
「セイさん。これ、いつ作ってもらったお薬?」
「…答えなきゃ、だめか?」
「答えて」
「…3年前」
「じゃあ、もう一度体調を調べて調合しなおさなきゃ。3年前と同じ体調ってことは無いと思うし…」
「診察の必要はないよ」
チョッパーの台詞を遮って、サンジは立ち上がった。
チョッパーが摘まんでいる一錠も取り返し、小瓶に入れなおすと、懐にしまいいれる。
「作ってくれるか?」
「だめだ。医術師の言う事を聞かないと、余計体が悪くなっちゃうんだからな!」
「そこを何とか、頼む」
「絶対ダメだ!!」
何が何でも診察する、そう息巻くチョッパーにサンジは困った。
体に触れられたくはない。触れられれば、おそらくすぐに気付かれてしまうだろう。
サンジにかかっている変装の魔法が、一つではない事に。
…だからサンジは、
「医術師には患者の情報の守秘義務があったよな。今の話のこと、他の人には秘密だぜ」
逃げ出した。
チョッパーの視界で灰青の髪がふわりと揺らいだかと思うと、一陣の風が巻き起こり。
ガチャ、バン!
「あーっ! 逃げた!!」
サンジは飛ぶように部屋を逃げ出していた。
チョッパーは慌ててベッドを飛び降り、セイの後を追おうと廊下に飛び出したが、既に影も形も見当たらなかった。
「…結構、元気そうだな」
ほっと胸を撫で下ろし、思わず握り締めてしまっていたヒヅメを見つめる。
一見、何の変哲もないただの白い錠剤だった。
だが、チョッパーの鋭い嗅覚は、そこに奇妙な匂いを嗅ぎ取っていた。
「セリルチエン…まさかね」
昔嗅いだことのある劇薬の名を呟くと、チョッパーは首をかしげ、セイの後を追って廊下を走り出した。
医術師が患者に逃げられるなんて、医術師としての恥だ。
とにかくとっ捕まえて、ベッドに縛り付けてでも診療してみせる!
そう決意して廊下を走るチョッパーは、自身の考え方がすっかりくれはに毒されていることに気づきもしないのだった。
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