|
きっかけは、何だったろう。 思い当たることはたくさんあるのに、どれも決め手に欠ける。 サンジは何と言うだろう。 明確に、覚えているだろうか。 あの日のサンジの言葉とか。 あの日のサンジの笑顔とか。 きっかけはとても些細なことだったのだろう。 けれどいつの間にか、俺はサンジに惹かれていた。 そう、惹かれていたんだ。 話をするだけでは、足りない。 隣に立つだけではなく、もっと深く触れたいと…思う。 …思うのに、何だこの熱さは? 背中が熱い。 背中のサンジが熱い。 熱い。 なのに俺の体は冷たくひえて。 どうしてこんなことになったのか。 きっかけは、何だったろう。 「おい」 「ああ」 「生きてるか」 「まあ何とかギリギリって所? …テメェの方こそどうなんだ」 「ああ、俺の方はまだまだ余裕だ」 首筋にあたるサンジの息は、あの砂漠の熱風を思い起こさせた。 熱風が揺れたのは、多分笑ったからなのだろう。 俺にはその表情を伺う事は出来ない。ただ目の前を見据えて、一歩一歩前へ進む だけ。 「さすが、肉鎧着てるだけはあるな」 「気持ち悪ぃ言い方すんな」 また熱風が揺れる。 この風を感じている間は、まだ、大丈夫だ。 打ち寄せる波音と、砂を踏む俺の足音と、サンジの呼吸と。 そのどれか1つでもなくなった瞬間、俺たちはきっと。 「少し静かにしてろ、もうすぐ船に着くから」 「そういやお前、船の方角、分かってるか?」 「海沿いに歩いてりゃそのうち着くだろ」 「だからテメェはバカなんだ」 「うるせぇ」 多分サンジは笑おうとしたのだろう。 けれど、俺の肩にかかったのは息ではなくて熱い飛沫だった。 むせて、苦しげに息を吐く。 何とかしたいが、俺にはなにもできない。 だから決して立ち止まらず、ただただ前進しつづけるしかない。 半分ほどに欠けた月が、紅い足跡を、そして俺と俺に背負われたサンジを緋く照らし ていた。 上陸先でのいつものいざこざ、しかし不運に不運が重なった。 ――上陸した島の村は貧しく、そしておそろしく排他的だった。 海賊の武力を恐れているのだろう。すぐに襲ってくることはない。 けれども、例えばあれは買い出しのとき。 俺はサンジと一緒に街を歩いた。 …小石が飛んできた。 俺たちは笑顔だった。 …卵が飛んできた。 俺は振り返ったが、サンジは笑顔だった。 …向かった店で、俺にも分かるぐらいぼったくられた。 俺は店主が土下座して謝るまでボッコボコにしてやろうかと思ったが、サンジは笑っ て言い値を支払った。 始終、この調子だ。 チョッパーなどもっと酷い目にあったようで、ナミとウソップがしきりに憤慨していた。 本人は「オレは気にしてねぇぞ!」と笑顔だった。 …もっともその後、どういうわけか俺のところに来て、ズボンに顔を押し付けてわあわ あ泣いてたが。 こんな村からはさっさと出て行きたいと思うのに、ログが溜まるのに1週間もかかると いう。 ――何て不便なんだ、グランドラインは。 広いグランドラインの事だ。こういうことはこれまでにも何度かあったはずだった。 けれど、数日前の満月の晩…あの満ち足りた夜のせいで、俺たちはすっかりその事 を忘れてしまっていた。 …俺たちは海賊で、海を往く者。一所にとどまる者達とはもともと相容れない存在なのだということを。 ルフィはそれでも笑顔だ。 こんなとき、船長はどっしり構えて船員達の憤懣を押さえねばならないのだという事 を、ルフィは本能で知っている。 ナミはログが溜まり次第、即出航できるように、そしてすぐに次の島へ迎えるよう計 画を練りつづけている。 ウソップは、船体の修理と平行して、ショック覚めやらぬチョッパーと一緒に何やらま たおかしなものを作成中だった。実験台にされるのはまた俺だろうが、チョッパーが楽 しそうなので放っておくことにした。 サンジは。 サンジはいつもと変わらぬように見えた。 あまり余裕のないはずの食材を、山のような美味い飯に作り変えていく。ナミには愛 想を振り撒き、男性陣には蹴りと罵詈雑言のフルコースを振舞う。 けれど、なぜだろう。 アイツも、酷くイライラしているのが、分かる。 視線が絡むたび、それは予感から確信に変わっていった。 あれは、三日目の夜。 欠け始めた月を見上げながら、俺たちは甲板の上で酒を酌み交わしていた。 あの満月の夜のような幸福感は欠片もない。 互いに、沈黙の中、一滴を惜しむように少しずつグラスを傾ける。 コトリ、とサンジがグラスを置いた。 「…嫌な月だ」 「…まったくだ」 月はマストにかかり、見張り台の影を黒く浮かび上がらせる。 無機質さが際立ち、それは何故かこの村の空気を思い起こさせた。 「あの夜は愉快だったなぁ」 「…そうだな」 夜風にサンジの髪が揺れる。 あの満月の夜が、随分昔のように思えた。 大した事ではないはずだ。 海賊になると決めた時点で、覚悟していたはずだ。 だが、こうして、圧倒的多数の人々に嫌われているのだと言う事を認識すると、どう にも遣る瀬無い気持ちになる。 昔は、そうではなかった。 ただ夢だけを追っていたあの頃は、こんなことで落ち込んだりはしなかった。夢以外 のものを見る余裕などなく、他者などどうでも良かったのだから。 けれども今は違う。 “世界”には俺と敵しかいないのではない。たくさんの人間達がいて、生活していて。 この旗の下、友――仲間と呼べる者たちがいるのだと。 サンジも、そう思っているのだろう。 でなければ、こんなに無口になるものか。 「…喧嘩してぇな」 「したくってするもんじゃねぇだろう」 「はは、そうだな」 いっそいつものように大喧嘩できれば気も晴れるのかもしれないが、そうはいかな い。 ヘタに村人達を刺激しない方がいいだろう。今は何も仕掛けてこないが、何がきっか けで牙をむくか分からない。 …素人ゆえに、恐ろしいのだ。 大衆というものは、敵の前には容易く結束し巨大なうねりとなる事を、俺たちはよく 知っている。 だから俺もサンジも自重している。 ああ、喧嘩が、したい。 きっかけは、何だったろう。 今となっては分からない。 きっととても些細な事だったのだろう。 それは、あらゆる事に当てはまる。 きっかけを考える事など無意味だ。 重要なのは、どう対処するか。…予測して回避できなかった以上、それが最優先事 項だ。 恐れていた事が起きたのは、4日目の真昼。 ナミがしかめつらしい表情で、嵐の到来を予測した。 ウソップが、村の空気が変わったとしきりに気にしていた。 チョッパーは落ち着かない様子でルフィの側をうろついていた。 そして、少ないはずの食料でルフィを満腹にするという離れ業をやってのけたサンジ が、久方ぶりに鼻歌など唄いながらシンクで食器を洗っている最中にそれは起こった。 押し寄せる賞金稼ぎ。 悪天候。 精神的な疲労。 船の修理。 ログ。 村人達の突然の攻撃。 諸々が重なり合い絡み合って、結果。 船から遠く離れた場所で、俺たちは2人きりで血塗れになっていた。 俺は歩く。 サンジを背負って。 誰のものだか分からない血が煩わしい。 サンジの流した血だけ、何とかサンジの中に戻せたらいいのに。 「なあ」 「ん」 「生きてろよ」 「そいつは、ちょっと、難しいかもな」 サンジを背負う腕に思わず力が篭った。 弱音? 今のは、弱音か? あのサンジが弱音だと? …あり得ない。 あっては、ならない。 「…また」 「また?」 「あの満月の、夜みたいに、一杯、やらないか」 サンジは多分笑った。 「…ああ、そりゃ、いいな」 「あの晩のこと、覚えてるか」 「…忘れてぇよ、俺は」 「『月には行かない』んだろ」 「忘れろ」 「嫌だ」 俺は憑かれたように話し続けた。 今黙ったら、サンジは眠ってしまうかもしれない。 そして、二度と起きないかもしれない。 それだけは嫌だった。 何が何でも嫌だった。 どうしてそんなに嫌なのか。 答えは、俺の内にある。 「くだらねぇことばっか覚えてんじゃねぇ…」 「行くなよ」 「あぁ?」 「月には行くな」 サンジは一瞬絶句したようだった。 背中に感じるサンジの鼓動が跳ね上がる。 「何言ってんだ」 「月にも、どこにも、行くなよ」 勢い余って俺は何を言ってるんだ? いや、黙ってはいけない。 何か話さなくては。 手足が冷えて仕方ないけれど、話している間は歩いていられる。 「…ゾロ」 「俺の、目の、届かないところには、行くな」 流れ落ちる血と一緒に言葉も勝手に溢れ出した。 ああ、 ああ、 俺は何を言っている。 「なあ、行くな」 「…分かった」 「絶対だぞ」 「…ああ」 「約束しろ」 首筋にかかる息が揺れる。俺の肩からだらりと垂れ下がったサンジの右腕がゆっく りと上がり、手が俺の心臓の真上に来た所で止まった。 「…約束する」 サンジの手は酷く熱くて、触れられた部分から溶けていきそうな気がした。 「サンジ」 呼びかけた瞬間。 その手は力なく垂れ下がり、熱風が掻き消えた。 「サンジ!!」 怒鳴った瞬間目の前が真っ暗になって、一瞬天地が逆さになった。 月光が全身に突き刺さる。 気付けば俺は砂浜に転がっていて、サンジは真っ赤なのに蒼白くなっていた。 「おい、サンジ! 約束したばかりだろうが! 寝るな、起きろ!」 這い寄って、呼吸を確かめる。チョッパーに教わったのはどういう方法だったか。頭の 中が真っ白で何も思い出せやしない。 ようやっと、脈を見るには首筋に手をあてるのだったと思い出す。 触れたそこは、背負っていたときとは裏腹にひどく冷たかった。熱いのは俺の方だっ たのだ。熱すぎて冷たく感じるほどに。 自分でも可笑しいぐらい、手が震える。 …頼むから、生きていてくれ。 打ち寄せる波音が遠い。 ――死ぬな。 ――死ぬなよ! 微かな脈動を感じ取るべく、全神経を集中させる。 …1度。 2度。 3度。 4度。 生きて、いる。 「サンジ、起きろ!」 耳元で怒鳴る。怒鳴ったつもりだが、実際は呻き声のようだった。 サンジは目を開かない。 「サンジ!」 「…うるせぇ」 微かに口が動いて、言葉を紡いだ。 暴れまわる心臓の鼓動が煩くて、よく聞こえない。 サンジは目を開かぬままに呟き続ける。 「ゾロ、こんな時に、何だが」 「…おう」 「俺は、テメェが、嫌いじゃねぇ」 「ああ、俺もだ」 視界がぼやける。 その分、音がどこまでも澄んで聞こえた。 「嫌いじゃねぇんだ」 「俺だって、そうだ」 「そう、か」 「そうだ」 サンジは口元を僅かに歪めた。 多分笑っているのだろう。 俺に背負われている間も、きっとこんな表情だったのだ。 「嫌いじゃねぇってことは、つまり…」 「…知ってるさ」 「そう、だったな」 「当然だ」 「なら、」 ――泣いてんじゃ、ねぇ。 そう言われて俺は自分が泣いていることに初めて気がついた。 月が歪んで見えるのは、サンジも泣いているように見えるのは、俺が泣いていたか らなのだろうか。 「泣いてねぇ」 「…そう、かもな」 「泣いて、たまるか」 「そう、だな」 打ち寄せる波音だけが砂浜に響く。 2人仰向けに転がって、目を閉じる。 「船に、戻ったら」 「おう」 「続きを、話そう」 「ああ」 「たくさん、話そう」 「…話そう、な」
|